僕の思考場

どうも〇きよっしーと申します。僕の思想を書いていきます。

他人に期待しない生き方

はじめに

タイトルを見て何を感じましたか?

裏切られ失望し期待できなくなってしまったのではと感じたかもしれません。

でも、実は最も自由な生き方なんです。

 

悩み

アドラー心理学では、人間の悩みはすべて対人関係の悩みであると言っています。

仕事ができないことも人からの評価だし、老いも身体が不自由になり誰かに迷惑をかけるし、死も人との別れなわけです。

確かに、最初から宇宙にただ一人で存在していれば悩むことはないでしょう。

 

では、どうやってその対人関係の悩みを乗り越えていくのかという話です。

アドラー心理学には課題の分離という重要な考え方がありますが、僕は他人に期待しないことで全てが解決するのではないかと思います。

 

こんな期待をしていませんか

こんな反応をしてくれるとか、こんな性格のはずだとか、自分を正しく評価してくれるはずという期待をして生きている人がほとんどです。

その期待通りにならないから悩むわけで、そもそも期待なんかしなければ済む話です。

 

期待は相手を縛り付ける行為

人は期待をするとき、相手を条件付きで見ています。

また、自分が望む像との比較で相手を見ています。

それはつまり、そのままの相手を受け入れていないということです。

 

そして相手をそう見ているということは、自分に対しても同じように見ています。

自分を正しく理解して欲しい=自分は他人に認められなければならない

といった具合です。

逆に言えば、自分を縛り付けているから他人を縛り付けてしまうということです。

 

存在自体を受け入れる

そうは言っても、期待をしないなんて悲しいではないかと思いませんか。

期待をしない・されないことを悲しいと感じてしまう人は、自分や他人を行為のレベルで受け入れています。

これだけのことをしたから素晴らしいという風に評価しているのです。

だからこそ、「○○でなければならない」といった固定観念が生まれるのです。

 

考え方を変えて「何をしていても存在すること自体」を認めてしまったらどうでしょうか。

ただ座っていても良いし、人のためになることをしても良い。

悲しんでも良いし、ストレスを感じても良いし、落ち込んでも良い。

どんなときも無条件に存在していることを受け入れるのです。

 

それができると行為によって優劣を付けることが無意味だということが分かります。

なぜなら私の存在を認めるということは、私を成り立たせている宇宙全てを認めているということであり、認められないものが存在しなくなるからです。

自然と期待もしなくなります。

こうあるべきという固定観念も消え去ります。

また、自分の価値を肯定するために行為をするということもなくなります。

 

おわりに

大乗仏教では、「あなたはすでに仏である」と考えます。

僕は仏教徒ではないので表現を変えると、「あなたは常に自由であり幸福です」となります。

 

他人の承認を人生の軸にして生きてきた人からすると抵抗があるかもしれませんが、自分を承認してくれない人に対しても存在自体を受け入れましょう。

それだけで人生は大きく変わります。

幸せになるために生きているの?

はじめに

書店に並ぶ自己啓発書を読んでも、生きる意味は幸福になるためにあると書いてあるのをよく見かけます。

その考え方について批判したいと思います。

 

幸福感を得られるボタン

ボタンを押している間幸福感を得られるボタンがあると仮定します。

もし幸福になるために生きているのであれば、ボタンを押したまま一生を終えるでしょう。

実際、幸福になるために生きていると主張する人にボタンを押すだけの人生を歩みたいのかと尋ねれば違うと答えるでしょう。

幸福を追求するというのは正しいですが、幸福になるために生きているのではありません。

 

生きる意味がなぜ必要なのか

そもそもなぜ生きる意味なんて考えてしまうのでしょうか。

それは、訳もわからず生まれてきた自分の存在が不安定だからです。

なぜ生まれてきたのか分からず、自分が存在していることが不安なんです。

だから生きる意味を求めたり、神という存在を作り出したりしてしまうのです。

要するに、安心させるための道具なわけです。

 

生きる意味を求めない

自分の感情としっかり向き合って生きていく上で、生きる意味を考えることは妨げになります。

生きる意味なんかにすがらずに生きていきましょう。

 

窮屈な生き方

生きる目的があるということは、行為によって存在価値を見出しているからに他なりません。

また、能力の優劣により存在価値を決定するので他者との比較をしてしまいます。

自分は価値がある存在だと思うために他人より多く努力をして多くの成果を出そうとします。

その反面、努力をしていない自分を受け入れることができません。

勉強ができない人や仕事ができない人も認めることができません。

 

自然な生き方

そんな生き方は窮屈だと思いませんか。

大切なのは、「私が存在すること自体に価値を見出せるのか」ということです。

私の価値を規定する根拠など必要ありません。

 

あなたが失敗ばかりしていても、苦しい過去を抱えていたとしても、ショックで立ち直れなくても

あなたは生きているだけで価値があります。

 

ですから、他人のことも根拠なしに存在の価値を認めましょう。

絶対に条件を付けてはいけません。

条件を付ければ付ける程、自分自身が息苦しくなってしまいます。

自由とはなにか 続き

はじめに

前回どんな状態を自由というのか様々な角度から見てきましたが、少々回り道をしてしまったのでまとめたいと思います。

 

自由の3つの段階

①「やりたいことができる」対「やりたいことができない」

通常の自由の概念。

どちらも傾向性に従っている。

 

②「傾向性に従う」対「全体を意識して行動する」

カントに近い考え。

理性を重んじたカントと違い、自己への執着をなくすことを重視。

表現を変えれば「自分自身からの自由」

 

③対立軸なし

そもそも僕らは自分をコントロール出来ていないから不自由なんてものはない。

常に自由。

厳密に言えば、自由か不自由かという枠組み自体不要。

 

おわりに

嫌な宗教体験をきっかけに自由とはなにか考え続けてきました。

考えた先がまさかそんなものはないって結論だとは思いませんでした。

人生とは面白いものですね。

自由とはなにか

はじめに

僕は工学部出身なので哲学は詳しくないですし、無宗教なので仏教も詳しくありません。

ですが、某宗教団体の信者たちがやっていることは間違っていると思いながら宗教的行為をさせられる中で、自由とはなにか考えながら生きてきました。

 

 

大学時代の友人との会話

僕には大学時代最も親しくしていた友人がいます。

その友人とは人生についていろんな話をしました。

ある日、僕は友人にこう投げかけました。

 

例えばAKBのファンがライブに行くことは、自分のやりたいことができるから自由であるとする。

でもそれは過去に見たメディアの情報によって条件づけられたもので、自分が選んでいるとは言い切れないんじゃないか。

自分がやりたいことを選んでいるというのは、実は選ばされているだけで自由ではないんじゃないかな。

 

友人は「それはそうだけど、そこまで掘り下げたら全ての選択が当てはまるし、それは自由か不自由かの問題ではないんじゃないかな」と答えました。

 

同じように考えた哲学者カント

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カントもまた僕と同じような問題意識を持っていました。

 

こちらのサイトから引用させて頂きます。

http://blog.yuku-t.com/entry/20100713/1279029548

自己の欲求や利害に則って行動しようとすることを傾向性と呼びました。

僕が先ほど例に挙げたAKBを応援するファンも傾向性に従って行動したと言えます。

 

カントの考え方の問題点

"動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしている時、人は本当の意味では自由ではない。何故なら、それは生理的要求と欲望の奴隷として行動しているだけだからだ。”

 

”自由な行動とは自律的に行動することであり、それは自然の命令や社会的な因習ではなく、自ら課した法則に従って行動することだ。そして、この「自ら課した法則」を生み出すのが理性である。”

 

ふむふむ、カントは理性によって不自由さを克服しようとしたわけですね。

ですが、理性もまた生育環境や社会的文脈に沿って条件づけられるものであり自由ではないと思います。

カントの考え方の根底には、理性>感情という構図があったのでしょう。

 

傾向性に従うことの不自由さ

賛同できない部分はあるものの、カントの言う傾向性は大きなヒントになりそうです。

やりたいことをやる人生は素晴らしいじゃないかと反論されそうなので、傾向性に従うことの問題点について考えてみましょう。

 

例えばあなたがハンバーグが一番好きな食べ物だとします。

目の前に肉じゃが・ハンバーグ・ロールキャベツがあります。

好きなものを選んで食べてくださいと言われればハンバーグを選ぶでしょう。

 

でも、このハンバーグが好きという感情は過去の経験や本人の好みによって決まるものであり、本当はもっと自分にあった食べ物があるかもしれません。

 

つまり、快適なものを選ぶという行為は現状の自分を固定化することに他なりません。

ああなりたいな、こうなりたいなと思いながら、人は変化を嫌い現状維持を選ぶのです。

 

無我

傾向性に従うのは不自由で、理性でも克服できない。

ならば僕たちは常に不自由なんでしょうか。

いいえ、違います。

そもそも根本的に考え直さなければならないことがあります。

 

それは自分の感情や行為はコントロールできるという錯覚です。

 

人を好きになることは選べませんし、何かを選択することは周りの環境に依存します。

だから、自分でコントロールしているものなど何ひとつないということです。

 

自分がコントロール出来ないのであれば、そもそも不自由なんてものはないんです。

 

 

嫌々宗教的行為をさせられていたときも

 

仕事でやりたくないことをしているときも

 

悲しみで立ち上がれないときも

 

 

常に僕らは自由です。

 

 

ただそれを忘れてしまっているだけです。

私という意識がそれを邪魔しているんです。

 

現代の危険な思想

今の日本にはかけがえのない私という意識が蔓延しています。

人権を大切にしすぎた弊害とも言えます。

個人を大切にしすぎて、集団の中の私ということを忘れさせられています。

 

SNSで承認欲求を得ようと私に意識を向ければ向けるほど不自由になります。

個から全体へシフトしていかなければ日本は駄目になっていくでしょう。

 

おわりに

傾向性は克服出来ます。

必ずしも自分がやりたいことではなくても、周りの人のために行動する。

そうすると現状の自分から変わっていきます。

私から脱却した無我の立場に立つことです。

 

結局これは僕の思想である

過去から未来の宇宙全てが関わって一つの流れ(または運動)が出来ていて、分割できない最小単位である

というのと同じことです。

 

そして自由を追い求めるのではなく、すでに自由なんだということに気付いてください。

 

エリート意識批判から本質に迫る

はじめに

仏教の空の思想やアドラー心理学の共同体意識のパクリじゃないのかと思われるかもしれませんが、特定の考えを支持するのではなくあくまで自分なりに考えた内容をお話ししようと思います。

 

一般的なエリート意識の批判

自分が他人より能力があるというエリート意識は、以下のように心理面から批判されるのが一般的かと思います。

 

すごい人と比べて容姿や能力が劣っていて、「自分には価値があるのだろうか」と不安になる。そんな劣等感が大きくなったとき、特別意識を持つことで劣っている自分を覆い隠そうとする。自分が優れているのでも他人が劣っているのでもなく、自分の無価値さと向き合うことに恐れているだけだ。

 

または、特定のものさしで自分や他人を測っているといった批判も素晴らしいと思います。

ですが、僕は別の視点から批判します。

 

集団の不可分性

仮に集団の中で仕事のできる人が2割いたとします。

その2割の人達だけで仕事をすれば、当然その中でも仕事ができる人とできない人に分かれます。

集団が変わればできる人ができない人になることはありますし、また逆もあります。

 

当たり前ですが、能力の優劣は集団の中で相対的に位置づけられるものです。

特定の人物だけを取り上げて考えること自体がナンセンスであり、できる人もできない人も含めた1つの集団が分割できない最小単位だと考える方が自然ではないかということです。

それが理解できた時、すべての劣等感は消え去ります

なぜなら、他人と比較して自分が優れているか劣っているか気にする必要がないということが分かるからです。

 

〇〇大学に受かったのは何のおかげ?

××先生のおかげとか両親のサポートのおかげとかそれっぽいことはすぐに思いつきます。

でも、もっと厳密にすべての要因を考えてみます。

 

授業中の雰囲気も重要ですからクラスのみんなのおかげでもあります。

文房具やノートなどを買うことができたおかげとも言えます。

受験会場まで車やバスで向かったと思いますが、それまでの道路のおかげとも言えます。

道路があるのは整備している国のおかげであり、土の中にいる小さな虫たちおかげとも言えます。

 

ある結果には無数の原因があり、その原因を成り立たせているのもまた無数の原因なわけです。

そうやって考えていくと、その時に至るまでの宇宙全てのおかげと言うことが出来ます。

だからなんなんだとか無茶苦茶だという反応が返って来そうですが、ここから重要な視点を得ることができます。

 

それは

「過去から未来の宇宙全てが関わって一つの流れ(または運動)が出来ていて、分割できない最小単位である」

という視点です。

 

考えることの限界

考えるには考える対象が必要ですが、その対象を選ぶということは先ほど話した流れから1つを取り出すということです。

流れは分割できないのですから、いくら考えても遠ざかってしまいます。

そうやって考えることの限界に気づくと人生観が変わります。

 

意識の変化

考える以外の方法ということで、とりあえず感じるものを意識すると決めます。

怒りに身を任せたり苦しみから目を背けたりせず、自分の感情としっかり向き合って生きていく。

考えるという行為も辛い状況からの逃避という側面があるため、そういう目的で考えるのも流れと向き合って生きていくことの妨げになります。

 

おわりに

どの場面でもこの流れを意識して生きていこうというのが僕の思想です。

例えば、他人と自分を区別して自分だけが得をしようとする生き方は、分割できないものを分割しようとしているので不自然だと考えます。